@kedamatti's diary

米山知宏の思考メモです(専門は、知/情報/自律的な組織づくり/プロジェクトマネジメント/ナレッジマネジメント/コミュニケーション/オープンガバメント/民主主義/市民参加/シビックテック)

アプリ:新潟で本を楽しむ

素人アプリ作りの第二弾ということで、先日の「新潟市内の農産物直売所マップ」(http://kedamatti.hatenablog.jp/entry/2015/05/25/220649)に続きまして、本を楽しめる場所マップを作ってみました。

 

 

新潟で本を楽しむ

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アプリ自体は、素人のものですので、たいしたことはありませんが、新潟は、東京と比べてしまうとやはり本屋・古本屋の充実度が劣るので、少しでも今あるお店を有効に活用できればということで。

 

ゆくゆくは、「まちライブラリー」を新潟でも実現して、もっと本を日常的に楽しむことができて、同時に、本を媒介にしてコミュニケーションが生まれていくような環境を作れればと。

machi-library.org

 

p.s.

本屋情報は随時更新していきたいと思いますので、情報ありましたらお願いします!

特に、古本屋さんと、本が充実してるカフェ情報をお待ちしています!!

地方の商店街にもいるドアマン

今日、ある商店街のオシャレカフェに1人で入ろうと、ドアを開けたときのことである。
私は、推定年齢40代半ばの女性4名の襲撃を受けた。
 
 
店員A「ほにゃらら街歩きですか?」
オイラ(突然の襲撃でよく聞こえなかったが)「は、はぁ」
店員A「歩いて来たんですか?」
オイラ「は、はぁ」
客C「雨降ってましたよね?」
オイラ「降ってましたね」
客D「どこから歩いて来たんですか?」
オイラ「こ、こなりじょうって言うんですかね?」(子成場というところなのだが、初めて行ったところで、読み方が分からない)
店員B「こなしば(子成場)ですね」
客D「かなりあるじゃん!ありえないんだけど!」(と、急にため口になる)
オイラ(お前のその発言こそ、ありえない)
店員A「なんで、濡れてないんですか?」
オイラ「ま、雨宿りをしつつ。。」
店員B「水と土の芸術祭関係?」(私が一眼レフをぶら下げていたので、そう思ったと思われる)
オイラ「全く関係ないです」
客C「なんで、ここに来たの?」
オイラ「この商店街に来てみたいと思って」
客D「あんた、何者?」
オイラ(お前こそ何者だよ)「いや、普通の」
店員A「どっから来たの?」
オイラ「新潟市から」
客C・客D(さんざん言っておいて、飽きたらしく、店を出る)
オイラ「あの、、、私、お店に入ってもいいんですかね?」

 

 
一体、私が何をしたというのか。5kmほど離れた場所から、たまたま雨が降る中歩いてきただけである。なんで、見知らぬ女性4人に尋問されなければならないのか。
その商店街に一つだけしかないと思われるオシャレカフェに、男一人で入っただけではないか。なぜ、立たされたまま、ボコボコにされているのか。
 
いつもならば、一眼レフを持っているときは、だいたい料理の写真は撮るのだが、こんな扱いをされてはプライドが許さない。
私は、一眼レフを目立つようにテーブルの上に置きながらも、料理や店内の写真を一枚も撮ること無く、さっさと料理とカフェラテを平らげ、店を出てやったのである。(どちらも美味しかった)
さぞ店員は悔しがっているに違いない。私の勝ちだ(本当は撮りたかった)。
 
店を出た後、商店街をぶらぶら歩いていたのだが、この一件が頭から離れない。というのも、実は昨晩、仕事のあと職場の近くのカフェに行ったところ、すでに出来上がっている女性二人組に絡まれ、今日と同じように「お前は何者か?」と尋問されていたのである。さすがに連日同じようなケースが発生すると、それについて考えてみたくなる。
昨晩の女性はお酒が入っていたという要因もあるが、今日の女性4名(店員もグルになってる)はそうではない。
だとすると何か。そこで思いついた仮説が、タイトルの「ドアマン説」である。
 
ドアマンといえば、銀座の高級ブランドショップの入口に立っているイケメン男子である。
ドアマンの役目は、通すべき人物は通し、通すべきでない人物は何が何でも阻止するということであり、我々庶民はそこを通る際には極度の緊張を強いられる。警察官に話しかけられれば、何もしていないにも関わらず緊張してしまうのと同じである。
 
昨晩と今日、それらの女性陣とのやり取りを通じて、私は、地方の商店街にも姿を隠した形でドアマン(以下、「ドアおばさん」と言う。)が存在していることを発見したのである。
お店は顧客にサービスを提供する場所でありながらも、100%パブリックな空間であるという訳ではない。パブリック性を持ちながらも、一定程度プライベート性を残す、非常に混沌とした場所である。ドアおばさんは必要に応じて不要者を排除するなどして、その混沌とした場を少しでも落ち着けようとする(ドアおばさんが客の場合には、自分のプライベート空間にしようとする場合も少なくない)。コミュニティというものは「ウチ」と「ソト」を必然的に分けるものであり、その点でドアおばさんの存在自体が問題になるものではないのであるが、そのコミュニティに確実に入れることを保障された者以外にとっては、実にやっかいな存在である。
 
銀座のドアマンなんて、可愛いものである。なんといっても、銀座のそれは、最初から姿が見えている。しかし、地方の商店街のドアおばさんは姿を隠している。いつ誰がドアおばさん(=番犬)に化けるか分からないというのは恐ろしく、その意味で非常にたちが悪いのである。銀座であれば、ドアマンと目を合わさず適度な距離をとって忍び込めば良いだけなのであるが、いるかどうか分からないというのは、それ以上の緊張を強いるものである。また、地方の商店街のドアおばさんは、集団で襲いかかってくることも、その特徴である(サンプル数は2)。油断しているところに集団で襲撃されると、中年オヤジは非常に危険な状況に陥ることになる。
 
しかし、怖れてしまってはいけない。怖れてしまえば、戦う前から負けなのである。不安な様子を顔に出したならば、それこそ、ドアおばさんから疑いの目を向けられ、襲撃される。むしろ、こちら側からドアおばさんを尋問するくらいの態度で臨むべきである。それでもやはり恐ろしいということであれば、男一人でオシャレカフェになんかに行かないことである。以上。
 
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(補足)
なお、この記事は事実を元にしたものであるが、著者は全く不快に思ってはいないので、念のため書いておく。楽しかったが故のネタ記事ということでお読み頂きたく。ここで書いたような襲撃は、地方の商店街(というか、コミュニティ・コミュニケーションのあり方)の魅力であり、むしろこうあるべきなんじゃないかとも思うが、人によっては受け入れられないかもしれない。

記憶の先に

記憶は、過去のものではない。それは、すでに過ぎ去ったもののことではなく、むしろ過ぎ去らなかったもののことだ。とどまるのが記憶であり、じぶんのうちに確かにとどまって、じぶんの現在の土壌となってきたものは、記憶だ。
 
これは、長田弘さんの詩集「記憶のつくり方」に収められている私が大好きな言葉なのだが、先日、「写真の町シバタ*1」のイベントとして行われた芹沢氏(アサヒアートフェスティバル*2実行委員会事務局長)と吉原氏(吉原写真館館主*3)の対談を聞いて、私は、しばらく忘れていた長田さんのこの言葉を思い出した。
 
「写真の町シバタで語る、アートとは?」というお題で行われたお二人の対談は、「アート」という枠に収まりきらないもので、地域・社会のあり方、地域・社会と個人の関係、そして、過去から現在の時間の意味というものを本質的に問い直す素晴らしいものであった。
 

計画 vs アート

現在の社会は、あらかじめ設計された目標を計画どおりに実現することが全てであり、計画どおりに進まないことは悪とされる。このことは、プロジェクト(project)、プロミス(promise)、プログラム(program)などの「pro-」(前に)がつく言葉の氾濫に現れている。このような状況に対して、芹沢氏は「目的に縛られることの非合理性」を強調した。目的を設定してしまうことで、それに縛られ、現実が変わっても見ない振りをしている。そもそも、目的を設定することは自由を失うことでもある。「計画」や「プラン」というものは未来をある一点に限定するものだが、アートは全く逆のベクトルであり、その意味を考えるべきであると。
 
自分なりにこの指摘を解釈してみるならば、「変更可能性の排除」という視点で捉えられるように思う。井上達夫は、ある公共的決定がその決定の敗者に対しても正統性を持ちうるのは、その敗者が次には勝者になりうる可能性がある場合であると指摘するが*4、事前の計画に固執し、変更可能性を排除することは、ある政策がより良いものに変わることができた可能性が排除されるだけでなく、その政策に対する正統性も消し去ってしまう。
芹沢氏の指摘を踏まえれば、「アート」は、その芸術性という意味においてのみならず、公共的決定の正統性という文脈においても理解される必要があるように思われる。
 

アートの意味するもの

ところで、「アート/アーティスト」とはなにか。私はこれまで、いわゆる芸術というものをじっくりと鑑賞してみたこともなければ、地域のアートプロジェクトに関わったこともなく、「アートとはなにか?」と聞かれても、全く答えようがなかった。アートと芸術と美術の違いも分からないし、ミュージシャンはアーティストと呼ばれることがあるのに、ミュージックがアートと呼ばれない理由も分からない。
というように、アートというものを非常に浅いレベルですら理解していなかったのだが、芹沢氏と吉原氏は、素人にも腑に落ちる解釈を提示してくれた。ごく簡単に言ってしまえば、アートとは作品そのものではなく、クリエイティブ性を追求する「振る舞い」であると。
 
 
  • アート/アーティストとは、芸術作品を作ること・芸術作品を作る人(職業)を意味するものではなく、誰にも頼まれていなくても勝手に取り組んだり、間違いかもしれなくても自分で判断して行動するというような「振る舞い・態度・姿勢」を意味するもの。
  • 物としての芸術作品は、そのような振る舞いを表現するための一つの「メディア」に過ぎない。
  • この意味において、普通の市民、普通のサラリーマンであっても、アーティストでありうる。
 
 
これらの解釈は、私自身がいまいち半信半疑であった「地域×アート」というものを理解するためのヒントになるように感じられた。つまり、「地域×アート」とは、自分とは関係の無い誰かが行っているものではなく、我々の内の中にあるものの集積なのではないかと。
と同時に、この解釈は、もはや死語ではないかと思われるほどに形骸化している「市民参加」を再考するための示唆にもなるもので、「市民参加」に変わるものとして「市民主体」の活動が生まれたり、さらには「市民への行政参加」という逆のベクトルの動きが現れていることにも繋がる。
 
 

過去と現在と未来のメディアとしてのアート

で、アートがそのような振る舞いを意味するものだとして、具体的にどうすれば良いのか。
 
芹沢氏は、「ローカル/プライベートなもの」や「過去から現在に至るまでのプロセス・歴史に眼を向けるべき」と指摘する。戦後の日本は、経済成長を追い求める中で、その速度があまりにも急すぎたために、ローカルなものや歴史を見つめ直す間もなく、その規模を拡大してきた。私は子どものときに、埼玉県内のいわゆる「ニュータウン」と呼ばれるところで暮らしていたが、そこには「住む」という機能以外には何も存在していなかった。過去の歴史は全く感じられなかったし、「住む」という機能以外は存在しないから、積み上げる歴史もない。かつてのニュータウンは、一世代だけの歴史無きオールドタウンになってしまうのではないだろうか。このような経験があったためか、私は、綺麗な街でなくてもいいので、歴史・過去の時間を感じられる街で暮らすことに憧れていた。で、大人になって選んだ先は、隅田川周辺の下町だった。
 
現在、「写真の町シバタ」では「まちの記憶」と題した回顧展が行われているが、長田さんの詩集の題にあるように、これも「記憶のつくり方」の一つの形と言えるだろうか。私がこの題をいま見て思うのは、「記憶」とは自然と作られるものではなく、むしろ、積極的に作られなければ消えてしまうものではないかということ。そこにアートの存在意義があるのかもしれない。
 
記憶がいまの自分の土壌であるならば、未来の自分の土壌となるのも、また、「記憶」以外にはない。
そして、そのことは、僕らが生活する街についても言える。
 
過去を見ること、歴史を知ること。
これは、単に昔あったことを懐かしむということではなく、未来を作るという創造的な行為であるように思われる。
 
 
じぶんの記憶をよく耕すこと。その記憶の庭にそだってゆくものが、人生と呼ばれるものなのだと思う。
 
 

*1:写真の町シバタ:http://photo-shibata.jp/

*2:アサヒアートフェスティバル:http://www.asahi-artfes.net/

*3:吉原写真館:http://www.y-ps.com/

*4:公共性とは何か、立法理学としての立法学井上達夫

「創る・造る・作る」を生み出す『燕三条トライク』

ずっと気になっていた「燕三条トライク」に、今日やっとお邪魔することができたので、写真を中心にご紹介。
 
 
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まず「燕三条トライク」とは何か。
一言で言えば「シェアスペース」なのだけれども、そこはやはり燕三条。単に電源とWi-Fiがあるだけではなくて、三条の大工道具(レーザーカッターもあるとのこと)を使える工作室や、ミシンが置いてある被服室もある。さらにはキッチンもあり、様々なものを「つくる(アプリを創る・物を造る・料理を作る)」ことができる場となっている。もちろん、人と人との繋がりをつくる場でもある。
 
ところで、この「トライク」という名前の由来。
トライクが入っている建物は、元は「外山虎松商店」という商店が使っていたもので、「虎松」=「虎が待つ」から「虎が行く」=「トライク」になったらしい。あとは、3つの商店街が交わる交差点にあったことから「トライアングル」も意味するものであるらしい。
 
その他詳細は、https://faavo.jp/niigata/project/235とかhttp://cocolococo.jp/2715をご覧くださいということで、それでは、写真をいくつか。
なお、肝心の外観であるが、撮ったつもりが撮れていなかったので、そちらについては上記URLをご覧くださいw
 
まずは、1Fのメインフロア。
入口の方から。

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反対側から。

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圧巻はこの本棚!!

これは、トライクの会員になっている人が5冊以上の本を置けば使用することができる。

まさに「まちライブラリー」のような。

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(上の写真の右の方に見えているのは、キッチン) 

 

それぞれの本棚は、本と名刺が置かれているのだけれど、こういう場所を利用する人たちの本棚だから、並べられている本も個性があって面白いし、また、置き方も工夫されている。下の写真のように、月ごとにテーマを設定して本を置いている人も。

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本好きなオイラとしては、この本棚を眺めるだけで、酒のつまみになる。

今度、酒を飲みに来たい。

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1Fの和室へ移動。

ここもまた、素晴らしい空間。

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庭を眺めながら、作業ができる。

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そして、被服室。ミシンもある。

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私のテンションがさらにあがった、2階のこの和室。

Code for Niigata で合宿しますか。

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外山虎松商店で使われていた木箱も置かれていて、これがまた良いのである。

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このように、とても素晴らしい空間なのだけれども、

トライクの周辺の環境もまた素晴らしい。

 

トライクを出て、数分歩けば、川に出る。

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川辺には、ベンチも置かれているので、作業に疲れたらここでリフレッシュしても良い。

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そして、川の周りには、このような小路が張り巡らされている。アイデアが煮詰まった際には、この小路を歩くと、斬新なアイデアが出るかもしれないし、出ないかもしれない。

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このように、とても贅沢な空間なので、三条付近の人はもちろんだけれども、東京などの遠方から合宿やイベントで使っても良いように思う。近くには、温泉もあるし、米も魚もお酒も美味しいので。

 

私もまた近々お邪魔しようと思います。

 

新潟市のオープンデータを使って、アプリを作ってみた

Code for Niigata の記念すべき第1作が本日リリースされたというタイミングで大変申し訳ないのであるが、こっそり、新潟市のオープンデータを使ってアプリ(新潟市内の農産物直売所マップ)を作ってみたのでご報告。

 

新潟交通バスの時刻表検索アプリ

本題に入る前に、まずはCode for Niigata の記念すべき第1作のアプリについてであるが、これは「新潟交通」のバスの時刻表を簡単に検索できるスマホ向けのアプリ。Code for Niigata のメンバーの中でも、バスの使いにくさを指摘する人は多くて、バスアプリは Code for Niigata の重要テーマになっている。今回のアプリは、その最終形ではないけれども、とても使いやすいアプリになっているので、新潟交通のバスに乗る人は是非使ってみて欲しい。

バス時刻表サービス リリース案内 | Code for Niigata

http://www.codeforniigata.org/bus/

 

新潟市内の農産物直売所マップ

さて、こんな素晴らしいアプリと比べられるものではないのだが、素人おじさんが作成したアプリをご紹介。

新潟市内の農産物直売所マップ

 

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これは、新潟市が公開している農産物の直売所に関するオープンデータを使って、その情報をGoogleMap上にマッピングしてみたというもの。機能的にはとても簡単なものなのだが、作ってみて思うのは、単に地図上にマッピングするだけでも、情報の閲覧性は全く変わるんだなと言うこと。当たり前の話ではあるのだが、改めて実感。

直売所で美味しい野菜を買いたいという人は、ぜひ使って頂ければと。

 

元のオープンデータは以下のもの。

GIS 農産物直売所 新潟市

 

さて、プログラマーでもない素人がアプリを作った思いはいくつかある。

  1. まず、Code for Niigata のメンバーの1人として活動する中で、なんでもかんでもプログラマーの人にお願いするのは申し訳ないという思いが出てきて、それならば、作れるものは自分で作るべきということで、やってみた。
  2. 二つ目としては、Code for Niigata みたいなコミュニティがより地域に根ざした組織になっていくためには、プログラムとかの知識がない普通の人の関わりが重要になると思われるが、彼らが Code for xxx の活動に魅力や可能性を感じてもらうには、実際に彼ら自身がアプリを作ってみることも大事なのではないかと考えている。私みたいな素人が簡単なアプリでも作ってみることで、素人プログラマーが増えていくきっかけになればということで作ってみたというのが二つ目の狙い。
  3. せっかく行政がオープンデータを出してくれたんだから、簡単なアプリであっても作ることでお礼になるかしら、、、という思いもあった。で、どうせ作るなら、まずは地図系だよねということで。

 

と、まぁ、こんな感じで作ってみた訳だが、何より、作ってて楽しかったというのが大きい。実は、10年ほど前にはプログラムをちょこちょこ書いていたときがあって、プログラムを書くのは結構好きだったりする。大学では先生(元東京工業大学助手の佐藤さん)とともにおそらく日本初のボートマッチのサイトを開発したり、また、某マーケティング会社では統計分析のツールVBAで作ったりしていた。

最近は、何か開発するとなればお願いするばかりの立場だったので、これからはなるべく自らも手を動かしつつ、勉強もしていければと。本当に複雑なものは難しいと思うけれど、ネット上のサンプルコードを見ながら書いていけば、以外と何とかなるもので。

 

最後に、今回のアプリ作りのメモ。

  • 環境としては、最初はDropboxのWeb用のスペースを使っていたのだが、動作に怪しいところがあり、レンタルサーバ(lolipop)を借りた。
  • 地図情報を扱ったのは全くの初めてだったのだが、地図の座標表記には、X座標・Y座標であったり、緯度・経度であったり、また、緯度・経度も60進法や10進法があったりして、GooleMapで扱える形式に落とし込むまでが一番時間がかかった。なんとなく分かってきたので、それこそマクロか何かを作ってしまえば良いかもしれない。
  • 今回は、公開されているデータがすべてそのまま吹き出しで表示される形になっているが、表示・非表示の選択であったり、エリアで絞り込んだりできると便利なので、後で手を加えたい。

「加茂本」の魅力

新潟界隈でちょいと話題になっている「加茂本」というフリーペーパーがある。
 
ざっくり言えば、新潟県加茂市の商店街の若者が地域の魅力を伝えることを目的として作成した無料の冊子で、ジャンルとしてはフリーペーパーになると思われるが、それはフリーペーパーと呼ぶのが失礼なくらいフリーペーパーらしくないフリーペーパーなのである。
(現物を見ればフリーブックと呼びたくなるが、フリーブックというジャンルは無さそうなので、とりあえずフリーペーパーと呼んだ)
 

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この「加茂本」。
先日、新潟で行われた「新潟アートディレクターズクラブ」の展示会でその存在を知って、これはすぐに加茂に行って入手しなければ、、、と思っていたのだが、なんと、職場の方がすでに入手されていて、今度この本を企画した方(「きふね」という料亭の佐藤さん)に会いに行くという話を伺い、今日お邪魔させて頂いたという訳である。この本の魅力は、なんと言っても佐藤さんの人柄によって作り上げられたものであり、佐藤さんがいなければ実際にこのような形になることは無かったかもしれないのであるが、酒を飲みつつ加茂本を読んでいたら、この本の魅力について考えてみたくなったので、一酔っ払い的な視点から考えてみる。
 
 

■まず何より、その「タイトル」

「加茂本」は「かもぼん」と読む。「かもほん」ではない。私が先日一目惚れしたのは、おそらくタイトルによるものと思われる。「思われる」というのは、一般に自分が好きなものの理由について説明するのが難しいように、この本に惹かれた理由も実は正確には分からないからであるが、たぶんそうである。
しかし、この名称は実に絶妙である。「るるぶ」も「ことりっぷ」も驚いているのではあるまいか。たとえば東京でこの本を出したいとしても、「東京本(とうきょうぼん)」というのでは、なんともシマリがない。「東京人」は良くても「東京本」はありえない。また、「新潟本」も厳しい。新潟でどうしても出したければ、まだ「潟本(がたぼん)」の方がマシである。
やはり、名称は合計4文字(つまり地名は2文字)が良いように思われる。音的には合計3文字(つまり地名は1文字)でも悪くはないのであるが、「おぼん」だの「どぼん」だの、それが本であることや、もとの地名が全く分からないということになりかねず、現実的ではないであろう。
ちなみに「お」も「ど」も地名としては存在しているようである。
 
 

■厚さ

魅力の2つ目は、その「厚さ」である。我が家の定規で測定したところ、その厚さはゆうに1cmを越え、1.2cmを記録した。これには、さすがの「るるぶ」「ことりっぷ」も衝撃を受けているに違いない。
 
ところで、最適な本の厚さとはどの程度なのか。「本の厚さ」と「販売部数」には明確な因果関係があるに違いないとの仮説に立ち、Google先生に聞いてみたが、さすがのGoogle先生もご存じないようであった。ぜひとも今後の研究成果に期待したいが、その結果は限りなく「加茂本」の厚さに近いのではないかと思われるほど、「加茂本」を持ったときの気持ちよさは何とも言えないものがある。
 
 

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■サイズ

「厚さ」と同様に、本にとってはその「サイズ」も重要な要素であるが、「加茂本」はその点においても計算し尽くされている。
我が家の定規で測定したところ「148mm×210mm」、つまり「A5」サイズなのである。
私は普段、A5サイズのノートを愛用しており、A5サイズこそが「携帯性(=できるだけ小さいことが望ましい)」と「筆記性(=できるだけ大きいことが望ましい)」という相反するニーズに応えてくれるベストなサイズだと思っているのであるが、加茂本もA5サイズであった。このことにより、私のノートサイズの選択が間違っていなかったことが証明されたのである。
そして、このA5サイズというのは、私が大好きな「ちくま文庫」と「岩波文庫(≠岩波新書)」と高さがぴったり同じであり、本棚に置いたときの統一感という観点からも文句のつけようがないのである。
 
加茂本を一度手に取ってみれば、そのサイズの最適性や、常に持ち歩きたくなってしまう本であることが分かるであろう。
 

■コミュニティ規模

コミュニティの適正規模に関する研究として、イギリスの人類学者ロビン・ダンバー教授による「ダンバー数」というものがある。これは、人が認知できるコミュニティの規模は150名程度であるということを示したものであるが、この点をも考慮したものになっているのが、加茂本の恐ろしさである。
 
加茂本はその表紙にも書かれているように「181人」の加茂人が紹介されている。この数字を加茂市の人口と比較すると約160人(人口29000人 / 181人)となり、加茂市の市民160人に1人の割合で加茂本に紹介されているということになる。これは、コミュニティの適正規模を示したダンバー教授の「ダンバー数」とも非常に近い数字であり、誰か1人は知り合いが入っているということになる。その厚さやサイズにおいても計算し尽くされたものであったが、人が認知できるコミュニティの規模まで考慮しているということは「るるぶ」も「ことりっぷ」も気づいていなかったのではあるまいか。
たとえば「るるぶ」には「るるぶ東京」というものも出されているが、ダンバー教授の理論を守ろうとすると、1300万人を越える東京では加茂本の400倍近い人(約8万人)を東京人として紹介しなければならない。これは千代田区民を全員掲載しても足りない数であり、2020年のオリンピックに沸き立つ東京人をもってしても、実現不可能であろう。
 

■アナログ版Facebook

そして、加茂本の最大の特徴は、そのソーシャル性である。加茂本は、ページ毎に商店街のお店が紹介されているが、ページの大半を占めるのはそれぞれのお店で働く社長さんや従業員の方々の写真であり、売り物は脇に小さな写真が載せられているだけである。商品の価格を掲載するなど、もってのほかである。一般的なガイドブックにあるように、商品だけ掲載されても興味は涌かないが、笑顔溢れる写真を見ると、そのお店で食べたり買ったりしたくなる。まさに、Facebookをアナログの紙で実現したものと言えよう。
 

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以上、ただの酔っ払いが、失礼を承知で、加茂本の素晴らしさを様々な観点から考察した。
 
こんな記事を読むより、加茂本を手に取って頂ければその素晴らしさが瞬時にご理解頂けると思われるため、ぜひ、加茂へ行って入手してほしい。
 
どうしても加茂に行くのが難しい人は、こんな記事を読むより、以下の記事を熟読することをオススメする。加茂本がどのように作られていったか、コンパクトに分かりやすくまとめられている。
 
加茂には今日初めて行ったが、小京都と言われるところで、散歩をしていて非常に気持ちの良い街であった。
 

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オープンガバメント・オープンガバナンスが生み出す新しい社会参加の形

文末に貼り付けているスライド(http://www.slideshare.net/kedamatti/20150329-46413063)は、ちょっと前にオープンガバメントについてまとめたものだけれど、関連してふと思ったことをメモしておく。
 
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個人的な関心もあり、「民主主義」「市民参加」などをテーマにした書籍はなるべく読むようにしているのだけれど、最近感じるのは、そこで提唱される民主主義理論が実際の民主主義・市民参加の動きに追いつけていないのではないかということ。もちろん、自分自身は学問の現場に身を置いているわけではないし、感覚に過ぎないのだけれど、実際はもうそういう状況ではないのではないかと感じることが少なくない。
 
それより、IT・インターネットに知見がある人が民主主義について書いたものの方が、はるかに納得感がある。
 
たとえば、数年前になるが東浩紀氏によって提唱された「一般意志2.0」。具体的に提案されるシステム的な部分については一時的なブームになってしまった感じもするが、政治参加における「無意識」「コミュニケーションなき政治」の重要性を指摘したその思想は今も生きている。また、鈴木健氏による「分人民主主義」の概念は、実際の政治制度としては実現されていないものの、それぞれの個人が関心がある複数のコミュニティに関わり活動していくことが一般的になりつつある今、すでにそのような社会になりつつあるとも言える。
 
既存の民主主義理論と東氏や鈴木氏らによって提唱される新しい民主主義のアイデアとのギャップは、ネットが「そもそも政治とはなにか、あるいは国家とはなにか統治とはなにか、その定義そのものをラディカルに変える可能性に繋がっている」という東氏の指摘に象徴されるように思われるが、たとえば「参加」の意味も変わってきたのではないか。
 
まず1点目としては、「参加」の形の多様化・軽量化である。
従来は、自治体の総合計画や政策などに関して行政と市民が議論するというものであったが、いま生まれているのは、ある政策についての直接的な議論ではなく、地域のことをより知ったり、地域がより便利になるアプリ作りを通した参加(=政策そのものに関するものではないという意味で「間接的な参加」)である。代表的なものとしては、各地域で展開される「Code for XXX」の活動があるが、これは、「行政の施策について意見を出すことは難しいがITには明るい」という層が社会・政治に関わる場を作り出したという点で非常に価値がある取組である。
 
2点目としては、「参加」の方向の逆転である。
これまでは「政治・行政への市民参加」という形で、市民が政治・行政に参加するという方向であったが、「市民への政治・行政参加」という逆の方向性が見られるようになったことがあげられる。たとえばITを使った市民参加として、10年ほど前には「電子会議室」や「地域SNS」が行政側が設置する形で活用されていた(※行政以外が設置するものもある)が、行政自身が設置する限り、その運営ルールは行政自身が設定できるものであり、行政がデザインする市民参加の場であったと言える。しかし、現在、TwitterFacebookなどのソーシャルメディアを介して行われる市民参加は、行政側がそれらのツールを主体的に選択して使っているものだとしても、その裏には「ソーシャルメディアを行政は使うべき」という社会的要請があるものであり、そもそもそれらのツールが民間企業によって運営されているものである以上、そのツール上における振る舞い方を行政が全て自由に設計することはできない。自分自身でコントロールできない場において活動せざるを得ないという状況は、「市民が参加する」というよりは「行政が参加させられる」という側面が出てきたようにも思われる。
別の例として、議会との対話の場を市民が企画・開催するというものや、また、選挙時に候補者が提示するマニフェストのフォーマットを有権者側が設計し、そのフォーマットに基づいたマニフェストの提示を求めるという動き(マニフェストスイッチプロジェクト)があるが、これらも市民がデザインする場に政治が参加するようになった例と言えるだろう。
 
これらはぱっと思いついたものを記載したに過ぎないが、詳細に検討すれば、様々な点で「参加」の意味が変容していることが明らかになるかもしれない。
 
選挙はたしかに大事なものであるが、選挙に行かない人は「本来は行くべきである」ことくらいは理解した上で行かないのだから、選挙の直前になって「選挙に行こう」といくら叫んだところで、投票に行く人はそれほど増えないだろう。それよりは、選挙ではなくとも社会や政治に関わることができる(関わりやすい)場所を多様にそして多層的にデザインしていくことの方が必要であるように思われる。そして、日常的に何かしらの形で社会・政治に関わっていくことが、結果的に選挙への参加にも繋がっていくのではないか。
 
以下のスライドは、そのようなことをまとめたものです。