「オープンマインド」とは何か?(勝手にオープンガバメント論シリーズ)
オープンガバメントやシビックテック界隈では、しばしば「オープンマインドが大事」という指摘がなされるが、このオープンマインドとは具体的にどういうものなのか考えてみたくなったので、書いてみる。
オープンマインドは、「開放的であること」「多様性を受け入れる」などを意味するものであるが、そこには、他者が侵入してくることを拒まないという意味での「内向きのオープンマインド性」と、「自ら相手の懐に入っていく」「外の世界に出ていく」という意味での「外向きのオープンマインド性」があるように思われる。
市民参加の取り組みを見ていると、行政側が「市民参加の場を用意しているのに、市民が全然参加してくれない」と言っているケースを目撃する。この状況は、「内向きのオープンマインド性」を(形式的には)有しているが、一方の「外向きのオープンマインド性」という点では不十分である。市民参加の目的が市民と行政の対話にあるのであれば、行政が市民の場に自ら出ていくことも、対話という目的を実現する重要な手段である。
では、「内向き&外向きのオープンマインド性」があれば十分だろうか。
そうではない。
もう一つ必要な要素は、2方向のオープンマインド性を備えた上で、常に、批判されうる可能性・変更せざるをえない可能性を受け入れる姿勢である。これこそが、オープンマインドの本質ではないか。
いくら、内向き&外向きのオープンマインド性を持っていたとしても、批判を受け入れず、また、自身が変更することを受け入れる姿勢を持っていなければ、それは形式的なオープンマインド性を有しているにすぎない。
自身が、批判されうる存在であるとともに、変更可能性を受け入れる姿勢を持っているからこそ、対峙している相手も、オープンマインドであろうとするのではないか。