@kedamatti's diary

米山知宏の思考メモです(専門は、知/情報/自律的な組織づくり/プロジェクトマネジメント/ナレッジマネジメント/コミュニケーション/オープンガバメント/民主主義/市民参加/シビックテック)

記憶の先に

記憶は、過去のものではない。それは、すでに過ぎ去ったもののことではなく、むしろ過ぎ去らなかったもののことだ。とどまるのが記憶であり、じぶんのうちに確かにとどまって、じぶんの現在の土壌となってきたものは、記憶だ。
 
これは、長田弘さんの詩集「記憶のつくり方」に収められている私が大好きな言葉なのだが、先日、「写真の町シバタ*1」のイベントとして行われた芹沢氏(アサヒアートフェスティバル*2実行委員会事務局長)と吉原氏(吉原写真館館主*3)の対談を聞いて、私は、しばらく忘れていた長田さんのこの言葉を思い出した。
 
「写真の町シバタで語る、アートとは?」というお題で行われたお二人の対談は、「アート」という枠に収まりきらないもので、地域・社会のあり方、地域・社会と個人の関係、そして、過去から現在の時間の意味というものを本質的に問い直す素晴らしいものであった。
 

計画 vs アート

現在の社会は、あらかじめ設計された目標を計画どおりに実現することが全てであり、計画どおりに進まないことは悪とされる。このことは、プロジェクト(project)、プロミス(promise)、プログラム(program)などの「pro-」(前に)がつく言葉の氾濫に現れている。このような状況に対して、芹沢氏は「目的に縛られることの非合理性」を強調した。目的を設定してしまうことで、それに縛られ、現実が変わっても見ない振りをしている。そもそも、目的を設定することは自由を失うことでもある。「計画」や「プラン」というものは未来をある一点に限定するものだが、アートは全く逆のベクトルであり、その意味を考えるべきであると。
 
自分なりにこの指摘を解釈してみるならば、「変更可能性の排除」という視点で捉えられるように思う。井上達夫は、ある公共的決定がその決定の敗者に対しても正統性を持ちうるのは、その敗者が次には勝者になりうる可能性がある場合であると指摘するが*4、事前の計画に固執し、変更可能性を排除することは、ある政策がより良いものに変わることができた可能性が排除されるだけでなく、その政策に対する正統性も消し去ってしまう。
芹沢氏の指摘を踏まえれば、「アート」は、その芸術性という意味においてのみならず、公共的決定の正統性という文脈においても理解される必要があるように思われる。
 

アートの意味するもの

ところで、「アート/アーティスト」とはなにか。私はこれまで、いわゆる芸術というものをじっくりと鑑賞してみたこともなければ、地域のアートプロジェクトに関わったこともなく、「アートとはなにか?」と聞かれても、全く答えようがなかった。アートと芸術と美術の違いも分からないし、ミュージシャンはアーティストと呼ばれることがあるのに、ミュージックがアートと呼ばれない理由も分からない。
というように、アートというものを非常に浅いレベルですら理解していなかったのだが、芹沢氏と吉原氏は、素人にも腑に落ちる解釈を提示してくれた。ごく簡単に言ってしまえば、アートとは作品そのものではなく、クリエイティブ性を追求する「振る舞い」であると。
 
 
  • アート/アーティストとは、芸術作品を作ること・芸術作品を作る人(職業)を意味するものではなく、誰にも頼まれていなくても勝手に取り組んだり、間違いかもしれなくても自分で判断して行動するというような「振る舞い・態度・姿勢」を意味するもの。
  • 物としての芸術作品は、そのような振る舞いを表現するための一つの「メディア」に過ぎない。
  • この意味において、普通の市民、普通のサラリーマンであっても、アーティストでありうる。
 
 
これらの解釈は、私自身がいまいち半信半疑であった「地域×アート」というものを理解するためのヒントになるように感じられた。つまり、「地域×アート」とは、自分とは関係の無い誰かが行っているものではなく、我々の内の中にあるものの集積なのではないかと。
と同時に、この解釈は、もはや死語ではないかと思われるほどに形骸化している「市民参加」を再考するための示唆にもなるもので、「市民参加」に変わるものとして「市民主体」の活動が生まれたり、さらには「市民への行政参加」という逆のベクトルの動きが現れていることにも繋がる。
 
 

過去と現在と未来のメディアとしてのアート

で、アートがそのような振る舞いを意味するものだとして、具体的にどうすれば良いのか。
 
芹沢氏は、「ローカル/プライベートなもの」や「過去から現在に至るまでのプロセス・歴史に眼を向けるべき」と指摘する。戦後の日本は、経済成長を追い求める中で、その速度があまりにも急すぎたために、ローカルなものや歴史を見つめ直す間もなく、その規模を拡大してきた。私は子どものときに、埼玉県内のいわゆる「ニュータウン」と呼ばれるところで暮らしていたが、そこには「住む」という機能以外には何も存在していなかった。過去の歴史は全く感じられなかったし、「住む」という機能以外は存在しないから、積み上げる歴史もない。かつてのニュータウンは、一世代だけの歴史無きオールドタウンになってしまうのではないだろうか。このような経験があったためか、私は、綺麗な街でなくてもいいので、歴史・過去の時間を感じられる街で暮らすことに憧れていた。で、大人になって選んだ先は、隅田川周辺の下町だった。
 
現在、「写真の町シバタ」では「まちの記憶」と題した回顧展が行われているが、長田さんの詩集の題にあるように、これも「記憶のつくり方」の一つの形と言えるだろうか。私がこの題をいま見て思うのは、「記憶」とは自然と作られるものではなく、むしろ、積極的に作られなければ消えてしまうものではないかということ。そこにアートの存在意義があるのかもしれない。
 
記憶がいまの自分の土壌であるならば、未来の自分の土壌となるのも、また、「記憶」以外にはない。
そして、そのことは、僕らが生活する街についても言える。
 
過去を見ること、歴史を知ること。
これは、単に昔あったことを懐かしむということではなく、未来を作るという創造的な行為であるように思われる。
 
 
じぶんの記憶をよく耕すこと。その記憶の庭にそだってゆくものが、人生と呼ばれるものなのだと思う。
 
 

*1:写真の町シバタ:http://photo-shibata.jp/

*2:アサヒアートフェスティバル:http://www.asahi-artfes.net/

*3:吉原写真館:http://www.y-ps.com/

*4:公共性とは何か、立法理学としての立法学井上達夫